2011年10月16日(日)
被災地・宮城県を訪問して来ました。
早朝、都内を出発して東北自動車道を一路北へ。
最初の訪問地は、宮城県南三陸町。津波で街のほとんどの建物が流された町。
ニュース等で有名になった『鉄骨だけが残った防災センタ-』前には、沢山の花が手向けられていました。左手には、病院建物の2階に釣り船が突き刺さったまま…。
「これでも、凄くキレイになりました。僕が初めてここに来た時には、瓦礫が道の両側にうず高く積まれていて、自衛隊の人達が沢山働いてしました。今は本当に静かになった。」今回の訪問をコーディネイトしてくれたM氏は、既に20回近く被災地を訪れています。その彼が「ここに来て見て、どうですか?」と私に問いました。
訪問した日は本当に秋晴れのすがすがしい一日で、海があまりに美しくて、海岸線沿いに連なる街々はとても静かでした。こんな美しい海が、ほんの7カ月前のあの日に、街に、人々に襲い掛ったのです。そのギャップの大きさに、私は現実を上手く受け入れらず、彼の問いに返事が出来ませんでした。
次に気仙沼港を訪問しました。
港の岸壁は地震のために陥没し、半分海に埋もれていました。
港近くの一帯は、水産加工工場が林立していた地域で、それら工場の建物が半壊状態のまま残されていました。そして工場の合間に沢山の民家が、倒壊して斜めに傾き、海水に半分浸かっていました。
「この家は、港のずっと奥から流されて来たものなんです。バスも自動車もそうです。」
気仙沼の港には、人々が住んでいた痕跡が色濃く残ったまま、ある建物は半分以上が崩れ、あるものは流されたままの状態で、7カ月以上野晒しにされていました。
魚の腐った匂いと、工場後の化学物質の匂いが強烈に漂っている中、かもめとカラスだけが悠々と空を飛んでいました。
「ここは、建物が残されているだけに、悲惨さが余計に迫ってきますね。」本当に胸が詰まりました。
今回の訪問の目的の一つは、被災者の方々からお話を聴くことでした。
南三陸町歌津町の仮説住宅の方が、私達の訪問を快く受け入れてくださいました。
歌津町は気仙沼と南三陸町の間にある小さな漁村です。
歌津崎の先端に建てられた仮設住宅に住む、漁師のTさんと、ご近所にお住まいのMお婆さんにお話を伺うことが出来ました。
『Tさん』
「船も家も全部流された。今、漁業組合の方でワカメの芽付けの作業を手伝ってるんだ。海の中は地震前とはすっかり変わってしまったよ。流された家やら瓦礫やらが底にいっぱい沈んでいる。海底の地形も変わってしまった。果たして前のように漁や養殖ができるのか、港は元通りになるのか、更に放射能の影響はないのか…不安なことは山積みさ。
娘二人は仙台でアルバイトして協力して何とか生活している。地震で就職先が潰れて仕事が無くなってしまったんだ。ここに呼んだって仕事が無いからね。」
『Mお婆さん』
「いっぱい悲惨な事を経験したよ。家も船も全財産流されて、写真一つ、服一枚残ってないの。着の身着のままで避難所で何カ月も過ごしたのよ。ここでは沢山の人がいっぱい泣いたの。海に流された遺体を、自分の力では助けられなくて「すまないね、すまないね」って両手を合わして泣いた漁師さんもいたよ。未だに家族の遺体が発見されていない人だって沢山いる。みんな海にもって行かれたのさ。」
歌津町仮設住宅は、総世帯数が25軒余りの小さいものです。
市の中心地近くには、もっと規模の大きい仮設住宅があるそうですが、歌津町では歌津崎の高台の狭い土地に、やっと仮設住宅が建てられました。
買い物するにも、一番近くの店まで車で30分以上かかる不便な土地です。歌津崎は起伏の多い複雑な地形で、ラジオ電波が入りづらく、支援物資や行政のサービスに関する情報がなかなか入手出来ないと言います。支援物資が中心地の仮設住宅に届けられるという情報に、いざ駆けつけても、その時にはもうモノが無くなって何も貰えなかった、という事が度々あったそうです。仮設住宅の造りも様々で、きちんとした鉄筋の広い仮設住宅もあれば、歌津町のようにプレハブを長くつなげた簡易なものもあります。仮設住宅によって、受けられるサービスの格差がとても大きいと感じました。
「家族の命だけは無事だった。本当にそれだけは幸いだった。」
家も船も車も全て失い、狭い仮設住宅で不便な生活を強いられている。そのお二人が口を揃えてこうおっしゃいました。
「前よりも小さくていいから、また家を建てて、家族で住みたいなぁ。そして海に出て働きたい。海で働けさえすれば、俺達は満足なのさ。家族で食えるだけ稼ぐのでいいから、また元のように暮らしたいなぁ。」
その希望が叶いますよう、強く願わずにはいられませんでした。